いつかのどこかの箱の中

つらい、しんどい、やさしい、たのしい

会話がほとんどなかった父と娘の話

こんにちは。まりもです。

相変わらず、ブログを書くのは苦手だな〜と思っています。

苦手でも頑張って記事を書いたのに、なぜかパソコンが壊れて、がっかりです。気を取り直して、スマホで書きます。

 

私は自己表現が下手だし、口下手です。だから書くのも苦労します。人間関係も苦労してます。そのことについて考えていたら、父の顔が浮かびました。

 

父はもう亡くなりましたが、かなり口数の少ない人でした。私は父に似ているのかもしれません。

 

父のことは好きだったか、嫌いだったかよく分かりません。幼い頃の私から見た父は、とにかくいつも不機嫌な人。大きな体で大きな声。気に入らないことがあれば、すぐ怒鳴る。母と毎日、喧嘩していました。子供の頃は、怖かったです。

 

遊んでもらったことは一度もありません。参観日も運動会も一度も来たことはありません。でも昭和の父親って、よそもそんな感じだったのかな。

 

幼い頃の私は、よく父のバイクに乗せられ、パチンコや競馬、競輪、競艇に行ってました。

どういう幼児教育だ?って感じですよね。

今は家族で楽しめるように工夫して、イメージアップした競馬場とかもあるらしいですが、私が父と行ってたのは昭和の時代。かなりダークでヤバい感じのオッさんたちの巣窟でした。

 

ある日、父と2人で遠くの花火大会に行きました。5〜6歳くらいの時でした。競輪でも競馬でもない父とのお出かけは珍しくて、うろ覚えですが、屋台で何かを買ってもらって手に持たせられました。

 

私は不安感の強い子供だったので、競輪場でも競馬場でもいつも父を見失わないように細心の注意を払っていたのですが、その日は花火大会の人混みで、父から離れてしまいました。

 

そして、父は私を置いて1人で家に帰りました。バイクで30分以上かかる場所だったし、夜だし道も知らないし、幼児が1人で帰るのは到底無理なのですが、どうするつもりだったのでしょうか?

 

この先は記憶がないので、母からの話になりますが、母は父が私を連れて帰らなかったことに気付き、警察に問い合わせたところ、無事に保護されていたみたいです。

私を置いて帰ったのはどういうことだったか、父が生きているうちに聞けば良かったかもしれません。「お前なんてどうでもいいから」と言われるのが怖くて、その出来事は、長いこと私の中で、なかったものと認定されていました。

 

高校2年生くらいのときに、私は父を無視することに決めました。何かで父に反発したのが理由ですが、理由なんてなくても思春期の女子が父親を嫌うのはよくある話ですね。きっかけがなくても無視していたかもしれません。

 

無視と言っても、こんな感じでした。

「おい、お茶!」「はい」で、お茶を淹れる。

「おい、新聞!」「はい」で、新聞を持ってくる。

無視してる感じは、薄いですかね?

結局、挨拶をしなくても怒られることはなく、雑談で話しかけられることもなく、ただ「お茶」とかの単語に、暗く小さい声で「はい」と言う。それ以外、全く何も話さない。

 

そのうち「はい」が「んー」になり、本格的に無言になったけれど、特に何も起こらなかった。

父にとっての私の存在って……。

私なんていなくても「お茶」ならお茶、「新聞」なら新聞を出す、ロボットがあればそれでよかったですね。

 

結局、私の無視は1年半ほど続いたところで、急にバカバカしくなり終了しました。終わってからも特に父と話すこともなく、お互いに何か聞かれたら一言か二言だけ話す、という関係でした。

 

大人になると見える世界が変わりますね。大きかった父の体は、私が子供だったので大きく見えていただけでした。大きかった声は、実は気の小ささを隠すためのものでした。

気が小さいから、賭け事も大きく賭けたりはせず、借金もしなかった。

花火大会の夜も、悪意で置き去りにしたというより、たぶんビビって逃げたんだろうな。だからオッケーってわけじゃないけど。

 

いつも不機嫌で怒っていたのは、口下手で自分の考えや感情をきちんと表現できなかったからではないかと思います。

 

父は 私のこと、どのくらい好きだったんだろう?私が父に対して、好きか嫌いかよくわからないように、父も同じ気持ちだったかもしれません。